20110207

日本美の歴史の延長;
窓格子、なつかしいガラス戸、HM木さっし

ついこの間、ともだちから谷崎潤一郎著の「陰翳礼讃」をいただきました。
学生の頃、南洋堂(建築専門書店)の目録で必読書となっていましたから、”読んだことがある” という程度の記憶はありましたが、今回久しぶりに読み返す機会に恵まれました。

読んでいると自然に、格子付の薄ガラスの引戸などが思い浮かび、”木サッシ”という響きには”木さっし”としたほうが陰影ではないのか、気持ちがよいのではないか。と感じました。

木さっしには、窓格子がよく似合い、また、格子があることで窓全体の格好を比較的美しくまとめやすいのではないか。という印象があります。そのふさわしい比例には既に、地層のように積み重ねられた歴史や、機能的に洗練された美(例えば、見込寸法は見付寸法より深くとる等)が凝縮されています。


窓格子の比例が少し不安定な状態で身近な環境に現れだしましたのは、アルミサッシとフロートガラスが導入された1960年頃からです。およそ50年前になります。フロートガラスによって、大きな面積を格子のない1枚ガラスでつくることができるようになり、格子は必要ではなくなりました。素材は木からアルミに変わり、格子は装飾として扱われることで、機能や伝統に基づかない不安定な比例を備えるようになり、子供たちは、この50年の間、考え抜きに似せてつくられたアルミ製の窓格子や、防犯用出格子を見て育ちました。格好の悪い、かつ伝統の延長線上にない突飛な格子が、現代ではあまり受け入れられていないのも当然ではないでしょうか。

われわれは、歴史という地層を美を構成する場合にデザインエレメントとしてとらえることができます。フロートガラスやアルミサッシは、敗戦からおいつけおいこせ時代の産物です。当時は、歴史文化と経済急成長を共生させることなど無理であったであろうことは想像に難くありません。50年経ちました。経済成長は、歴史文化との共生、あるいは延長線上にあるような気がいたします。これまでにないもの新しいものを発明発案する土壌にもやはり歴史文化への共感や感謝が必要なのかもしれません。

古い数寄屋づくりの建築などで感じられるあの窓格子には、日本美の控えめな強さや美しさが感じられます。まさに、我々の思う美が表現されています。

そう考えてみますと、明治以降の大正、昭和、平成という時代は、我々の誇る日本美をもつ歴史の延長線上にはないのではないか。あと数世紀もすると、過ちをおかした時代として位置づけられるのではないか。などと思えてきます。明治までの日本では、お金の有無に関わらず、日本美というものが民衆の精神に根付いていたのではないでしょうか。我々の世代は、3代ほど先の子供たちに、日本美を持つ歴史の延長線を延ばし続けていただける環境づくりに専念することが、この美しい歴史をつくってくれた先人に対する義務なのかもしれない。と思わされました。

HM木さっし

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